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“カクキューマーク”の誕生
マークは享和三年以後の販売記録に残っています。それ以前は記録がないので不明ですが、当時の当座帳には現在の“カクキューマーク”以外の様々なマークが使われていました。
現在の“カクキューマーク”が登場したのは文化十年(1813)で、江戸日本橋呉服町の伊勢屋吉之助へ味噌を卸した記録(同年1月17日)にあります。吉之助からは当時の最大顧客といえるほど大量の注文がありました。 |
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“八丁味噌”の呼び名の誕生
明治十一年九月に早川休右衛門が第十一区の区長あてに書いたと思われる「淵源」という文書のなかに「近傍ニテハ八丁味噌ト称シ遠国ニテハ三河味噌ト唱フ」ということばがあります。これから推察すると昔は現在と違って固有の商品名を付けず、地名を付けていたようです。
安政四年(1857)に江戸役人が書いた「三河みやげ」という本に「八丁味噌」の言葉があるので、幕末には八丁味噌の名はかなり広い範囲に知られていたといえます。当社の味噌が次第に広く知られるようになって名称の統一が必要になり、語呂がよく文字も簡単な「八丁」が選ばれたのでしょうがその正確な時期は不明です。 |
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宮内省御用達
小柳津要人(後の丸善社長)はじめ、岡崎出身の地理学者・志賀重昂、旧岡崎藩主・本田家家職の多門傅十郎らの世話で、旧岡崎藩主・本田家の忠敬といった人たちの援助を得て五辻大膳職太夫の紹介をもらうとともに当時の衆議委員・今井磯一郎(額田、東西加茂郡選出)らに働きかけた結果、明治25年に宮内省への八丁味噌納入の道が開かれました。そして九年後の34年12月28日正式に御用達の許可を得ました。
大豆の買入量は大正3年には3倍にまでなり、その間の年間平均成長率は6パーセントに迫るものです。
「宮内省(庁)御用達」という制度は昭和29年を以て完全になくなりました。当社の場合は五年ごとに交付される商標許可の辞令が昭和21年4月1日付けで最後となり、五年後の26年3月31日で御用達ではなくなりました。しかし、当社にとって宮内省御用達の許可を得たことは、その後の高度成長への大きな転機になったことに間違いありません。 |
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明治・大正期の受賞記録
第二次世界大戦後の宣伝媒体が豊富になった時代と違い、明治・大正のころの博覧会・品評会で賞を獲得することは、戦後とは別の重要な意義を持っていたと考えられます。ここで、大正末期までの主要な受賞結果をご覧頂きます。
●五二会全国品評会 有功賞銅牌 (明治29年5月20日)
審査総長=金子健太郎、品評会会頭=前田正名
●博覧会創設廿五年記念博覧会 記念状 (明治30年5月16日)
名誉総裁=榎本武揚、名誉副総裁=山田信道、会長=三井八郎次郎
●第二回五二会全国品評会 褒状一等 (明治31年5月10日)
審査総長=平賀義美、会頭=前田正名、総裁=佐野常民
●全国生産品博覧会 有功参等賞銅牌 (明治34年5月10日)
会長=三井八郎次郎、総裁=高崎親章
●第二回全国生産品博覧会 褒状 (明治35年5月11日)
会長=三井八郎次郎、総裁=大森鍾一
●第六回愛知県五二会品評会 銅牌 (明治35年5月11日)
愛知県知事=沖守固
●名古屋物産展覧会 銅牌 (明治36年6月15日)
第5回内国勧業博覧会名古屋共産会長=青山朗
●第五回全国生産品博覧会 銀賞 (明治41年5月10日)
会長=三井八郎次郎 総裁=九鬼隆一
●愛知県主催第十回開催府県連合会共産会 3等賞銅牌 (明治43年6月5日)
農相務大臣=小松原英太郎
●東京大正博覧会 銀牌 (大正3年7月10日)
総裁=載仁親王、会長=久保田政周
●広島県物産共進会 参考品として出品 (大正4年5月30日)
広島県知事=寺田祐之
●長野市勧業協会・全国名物名産品展覧会 感謝状 (大正5年6月10日)
長野市勧業協会長=牧野元
●松江商業会議所・各地名産品陳列会 感謝状 (大正6年6月20日)
松江商業会議所会頭=織原万次郎 |
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ドレスデン市万国衛生博覧会
明治44年(1911)ドイツ帝国ドレスデン市で万国衛生博覧会が開かれました。当社も日本政府の
命を受け八丁味噌を出品し、三等賞を受け記念碑を贈られました。
同博覧会理事会が最も注目したのは、一ヶ月余にわたる日本からの長い航海、しかもその途中には赤道直下のインド洋を幾日も通らなくてはならなかったのに、八丁味噌の品質に何の異常もみられなかった点です。
当時、ヨーロッパ留学の経験者の話では、日本から送られる味噌がヨーロッパに着くと必ず腐敗、あるいは変味しているということでした。真空包装の八丁味噌が出品されたと考えられていますが、過酷な気候条件にも変質しない、安定した八丁味噌の品質が認められた結果といえます。
このドレスデン万国衛生博覧会への出品で、当社の八丁味噌は初めて世界の舞台へ進出することになりました。 |
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南極観測
日本学術振興会南極地域学術観測隊の携行食品として、当社の八丁味噌は昭和31年9月、耐暑耐寒試験を受けた結果、優秀と認められ、同年11月の予備観測から37年4月まで毎回使用されました。事の起こりは岡崎市在住で八丁味噌愛好者の内田慶次弁護士が初期の観測隊長・永田武史氏と親しい関係にあり、八丁味噌の優れた耐久性についてお話頂いたことです。37年8月10日付で、当社の積極的協力に対し南極地域観測統合推進本部長・文部大臣荒木萬壽夫および日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会会長・茅誠司両氏名の感謝状が授与されました。また第八次南極観測越冬隊の隊員で豊田市出身の六峰咲年氏は昭和43年5月5日に、当社へブリザードでえぐられた大小二つの「南極の石」を寄贈されました。六峰氏八丁味噌の愛好者です。感謝状も南極の石も、当社史料館に展示されています。
その後、52年9月28日に第十九次南極観測隊の食料担当・小池勝夫氏から50キロの注文がありました。(愛知教育大学地理教室・仲井豊氏の紹介) |
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ジュガールヒマール登山
昭和35年3月から7月にかけて、日本山岳連盟主催、東海地区山岳連盟主管、文部省・中部日本新聞社後援で行われたこの登山に、当社は八丁味噌28.88キロを携行食品としてポリ袋包装で提供しました。隊員は伊藤久行隊長はじめ全隊員8人。
このほか八丁味噌は30年11月の間なする登山隊の携行食品としても用いられています。
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